昭和44年10月14日 朝のご理解
どんなに教えても教えても、言うて聞かせても、言うて聞かせても覚えが悪い。または分からないなら、やはり教える者も、「もう今日は教えん」。今まで習ってきたことを振り返っていわば復習してみる。「新しい事ばっかり教えたって身につかんものをどうするか、今日は教えんぞ」と言われるようなこともあろうかと思うのですね。何か今日は私はそういうものを感じるです。私自身が。ね。私が仮に皆さんにお取次ぎをさせて頂いておる。教えておるところは私が教えておるところではない。だから、私もいつも毎朝教えられておられるわけなんです。皆さんと一緒に。教えられてる私始め、も、私も含めてみんなが教えても、教えても分からん。言うて聞かせても言うて聞かせても出来ん。
「もう、今日は言うて聞かせんぞ」と。ね。「心があるなら、今まで習ってきたことを一遍振り返ってみて、今日はもう復習でもしておけと。いうなら、自習で勉強しておけ」と。ね。言われておるような気は今日はするのですよ。(? )教典を頂きましたら、ここんところを頂く(教典を叩かれる)。ね。しかもこうやって(?)影がこう、( ? )幾つもこうつきますね。こう、やっておりますと、ここんところにその、ははあ、今日は真の道の心得こちらの方を頂くだろうと思いよったところがそうではないこちらなん。 まあいうなら、それ頂いてね、今日は冒頭に申しますように、教えても教えても、言うて聞かせても言うて聞かせても、分からんのに新しい事を言うて聞かせてもしょうがない。 今日は教えん。だから、今まで習ってきたことを反省して振り返って見て、今日一日(?)「今日は、一つ、自分の胸に手を置いてここで考えてみてください」と言われておるような気が私自身、まあしておるのでございます。本当にここんところのこう、まあ、(?)のところに影が映じますように、おかげはそれこそ、おかげに、おかげの、花が咲くように、影に影がまたよりそうようなおかげを受けておるのにも関わらず、信心の方は一向に進まん。言うて聞かせて下さる事をそれを聞こうともしない。身に付けようともしない。それではやはり、教えるものとしても、ね、もう、今日は教えんぞと、教えるもののほうがかんしゃくをまわされるようなところがあろうか。また、勉強でもこう教えてやってね、何回も何回も同じ事を繰り返して教えてもどうしても頭に入らない。「もうあんたには教えん。まああんたの方でしなさい」というような体験を皆さんはあろうと思うが、何か今日は神様からそういう風に言われておるような気がする。それでも、それでも覚えん。影に影がまたよりそうようにおかげだけを受けておるという事をです、思うのです。
そこで、私が思いますのに、けれども、神様が教えて下さることを本気で守って本気で行じておかげを頂いていったらですね、私なんかはもう本当に思いあがってしまうのではないだろうかと。神より上になるな思うなと仰るがそれこそ、神様よりも上になったような気持ちになるのではなかろうか。ね。そして、元の木阿弥になると。元もこもなくしてしまうような結果になるのではなかろうか。恐ろしい、自分だが。(?)慢心気のないものはないといわれておりますように、だからそういう事を私は平気でいつもいうのですけれども、ね、本当に私自身、慢心の強い男ですから、もうちっとこうおかげを頂きますともう、私が信心が出来よるから、ね、おかげを受けておるようにすぐ錯覚するんですね、私は。人が先生親先生とこう言うて下さると、もうすぐおだてられていると感じなんですよね。そしてほんなこと親先生になったごたる気色でおる。はあ、もう本当に自分ながら自分ながら、ならどうした調子の軽い男じゃろうかと自分で思う。ね。それこそ、親先生親先生とこう例えばあげられるような時にいよいよ自分を白真剣に見極めていくような気持ちがどうして出来んのだろう。自分ながら。直ぐ、思いあがってしまう。けれども、今日は私は思うのです。神様、今日は神様は何を教えるも新しい事を教える、と例えば言うて下さっておるなら本当にそれが有り難い。ここでもういっぺん自分というものを深く反省し、振り帰ってみて、どんなにおかげを頂いても、ね、どんなにおかげを受けても、慢心するところか、それこそ「有り難うて有り難うてお礼の足りないお詫びばかりを致しております」と三代金光様が仰るような、どんなおかげを頂いてもおかげを受ければ受けるほど、お礼の足りないお詫びばかりを致しておりますというようなです、お詫びの心が自ずと出てくるような信心を、まず、身に付けさせてもらわなければね、これは、本当のおかげになってこない。だと今日は私は思わせてもらいました。
はあ、自分という男はどうしてこんなに思いあがりが強いのだろうかと。(?)慢心気のない者はおらんといわれておるというて、もうそれも、これは慢心気のあるとは誰でもだからというたような風に私が思うておるようなところにですこれはいよいよ私自身を気をつけていかなければいけないなと今朝私は思うておる。
ね。何の為に信心させて頂いておる。なるほど人間というものは、そのようなものかも知れない。ちょっと調子が良ければ調子に乗り過ぎる。ちょっと先生先生と言われればもう、ほんなこて親先生になっとるごたる気色でおる。なるほどこういう調子でいくところにです、「神よりも上になるな」と思うなと仰る、いわゆる神よりも上になる心があって、ね、おかげをよう、頂かんのだと。もしおかげを受けてもその受けたおかげがとり返しのつかない結果になってしもうては、いけんから神様は今日は新しいことはもう教えんぞと言うて下さったようなね、今まで習うてきた事をいっちょ胸に手を置いてみて、こげん時にはこうであらなければならん、こういう時にはこういう生き方があるんだ、信心があるんだぞと、もう一遍本当に深く深く反省してそして、どんなおかげを頂いてもこれは私がいつも申します事ですけれどもね、お金に不自由をしておる人がね、お金のお繰り合わせを願う。もう、お金のお繰り合わせを願わんで済む位に十分のお金を頂く。ね。いうならば、まあ、銀行に沢山のお金をおいて、その利子ででもまあ、立っていけれるようなおかげを頂く。頂いたら難儀魂魄しておる時の金に不自由しておった時のほうがさらさら忘れてしまって、それこそ、手を出してはならんところにでも、手を出して、頂いた財、頂いたお金でかえって自分で自分を苦しめるようなこともおこる。
金輪際、ないごとなるだければお金の不自由はいつまでもすると、言う私はいつも申しますがね、例えば億万の金を私に下さってもね、これを例えばわが身勝手な事にね、自分の身を自分で滅ぼすようなことのないことの為にしか、凝視しないといういわば、生き様がです、出来た時に神様は財の自由を許されると言う風に私はいつも申しますね。それなんですよ。どんなに例えばおかげを頂いても、そのおかげによって、とりかえしのつかないような事になってはならんから、おかげを下さらんのだと。もうこの男にならば、この人ならばどんなおかげをやっても大丈夫だというところがです、今日、どんなおかげを頂いても慢心せんですむ、慢心せんで済むというて慢心の出ようの無いほどに信心も出来んのにこのようなおかげを頂いて、ね、そのお礼の足りない、お詫びの足りない毎日であるような、いわば本当のお道でいう実意丁寧神信心が身についた時、だからそういう信心をいよいよ身につけさせてくださることの為に神様はおかげを下さらんのだと、今日もなら、ね、何にもないところを示して下さると言う事はもう何にもおしえんぞと仰っておられるような気がするのです。
ね。人間てどうしてこんなに思いあがりが強い。人間というのはどうしてこんなにそのことはいつも思っておるようである。慢心しちゃならん慢心しちゃならんといつも思っておるのである。けれども、もうすでに慢心しておる。自分に気がつく、そういう自分を発見する。もうげっそりする。これじゃ神様の本当のおかげを下さるはずがない。どういうような信心させてもろうたら、この慢心が出らんようになるだろうか。ね。どのような修行をさせて頂いたら慢心気のない私になれるだろうかと。思い続けておるようであってちょっと調子の良い事になってくると慢心が出ておる。
ね。もう何もやらんぞ何も教えてやらんぞと言われるのもやっぱり親心。本当なそれこそ神様が下さろうとしておるおかげを例えばここで言うなら私大坪総一郎に下さろうとしておる。けれども今本当のおかげをやったら私がね、もう、とり返しのつかんようなことになってしまう。頂いたおかげによって。そうしたんじゃあまりにも可愛そうだからと、いうような思いを今日はそういうものを感じる。私。ね。
浜辺に年老いた漁主が夫婦で済んでおった毎日漁に出てはそれが生活の足しになる。それが(?)の元になる。というような細々とした生活をしておった。その日も小船に乗っておきのほうへ魚を求めて出かけましたけれども、その日に限って魚が一匹の魚も網に掛かってこない。ね。もうやんがて日が暮れようとするのに、こうも今日は連れんのなら、もう今日は帰るよりほかに仕方がない。家で待っておるおばあさんのことを思うと、ね、淋しいことなんだけれども、もう今度行ってもう、一晩に(?)て、もう捕れんなら帰ろうと思うて、最後の網を入れますとその網の中に今まで見た事もないような、きらきら金色の光りを輝くような魚とも何ともしれんけれども、網の中でこう動いておるから、それを引き揚げてみるとそれはまさしく魚は魚ですけれども、今までかつて見た事ないというほどしの綺麗な魚であった。今日は最後にこういう素晴らしい魚を獲物にする事が出来たというてそれを手にしようとするとその魚が不思議に物を言う。「お爺さん、お爺さん」とこういう。誰が読んでおるかとおもうとにその魚が呼びかけておる。「私をもういっぺん海に放ってくれ。助けてくれ」というわけ。一日掛りでとった魚をどうして助ける事が出来るか。これはもって帰ってやはり普通の魚よりも高く売れるに違いないからこれはもって帰らなと。( ? )「その代わりにねあんたに大変素晴らしい事を教えてあげる」。ね。「いうならばあなたの願っておるあなたの一番願っておるものをあげたい。私がいう事、嘘か真かいっぺんそれを試してみてくれ」とこういうわけである。
とっさに、「何か欲しいもの」といわれたけれどもとっさに、欲しいと思うたものがお爺さんが出掛けに、何にもない小屋のようなお家でお婆さんが娼妓に腰を掛けて、お婆さんの前に水瓶が一つあった。しかもその水瓶はもう淵がかけておるけれども、買いかえることもできないまあ、みすぼらしい瓶があった事に気が付いて、「自分のうちには水瓶が必要なんだと。新しい。で、水瓶が欲しい」と言うた。ところがその魚がいう事にはね、「お爺さん帰ってみてごらんなさい、必ずあなたのお家に水瓶がちゃんとあるだろう」。まあ、半信半疑で「お前がそんなに言うなら」というて魚を放ってやった。帰ってみたところがやはりお婆さんが小屋の中でしょんぼりと娼妓に腰を掛けて折る事は同じだけれども、足下にこう置いてある瓶が新しい瓶に変わっておった。「いやーあの魚がいうておったことは本当だったな」と。「お婆さん実は今日はこういう事があったんだ」というて話すと、おばあさんがね、「もうおじいさんあなたは欲のない人じゃなあ」と、「こんな小屋のお家に住んでおるのだから、ね、そんなに、何でも出来る魚ならば、立派な御殿のような家を建ててくれとなぜ言わなかったか」と。「そう言われりゃそうじゃなあ。明日行ってもしその魚にあったら、なら今度はその家のことを頼もう」と言うて、また、明くる日海に漁に出たわけです。ね。
ところが早速その魚が「お爺さん今日は。昨日はどうでしたか」というてやってきた。いや「お前が言うとおりに確かに新しい瓶があったけれど、家でお婆さんがこうこういうた」。「そりゃあおじいさんみ易いことですよと。今日帰ってごらんなさいきっと、金天玉露のような立派なお家が建っていますよ」と。海を引き揚げて帰ろうとすると今までそれこそ、( ? )った海が少しさざなみだっておるのに気がついた。帰ってみて確かにそれこそ、見た事もないようなりっぱなお家が建っておった。お婆さんはまた言った。「家だけあってもどうします。お金がなからなければ。沢山なお金がなからなければ」。また、明くる日その事を魚に伝えると、「帰ってごらんなさい沢山な金があなたのお家にあるでしょう」と言う。今までさざなみであった海の波の、がね、少し波だっておる。けれどもお爺さんは家に沢山のお金が集まっておるであろう、沢山な金が積み上げておるであろうと言う事思うたら、もうその事にも気がつかずにお家に帰ったところが成る程、沢山な金の中にも埋まるようにしてお婆さんが娼妓に腰をかけておったところである。お婆さんがまた言うた。「家がどんなに美しくなったって、どんなにお金が沢山あったって、やはり、召使いがいる。明日は沢山の召使いをその魚に頼んで下さい」。また、その事を魚に伝えた。「何よりおやすい御用ですよと。帰ってごらんなさい。沢山な召使いがあなたを待っておるでしょう」とこういう。帰りには少しね、その海の上が黒ずんで見えたと。けれどもそれに気がつかなかった。
沢山な召使いにかしつかれながらそれこそ女王様のようにお婆さんが振舞っておる姿がお家にはあった。その、女王様のようなお婆さんはまたお爺さんに言うた。「そのように、なんでもかんでも出来るような魚に知り合ったのですからお爺さん。その魚を私の召使いになってくれ、家来になってくれと言うて頼め」という。そのお婆さんが命令するように言うたと。本当にそういう魚を家来するならこれから先何不自由する事もないからと、お爺さん思うてその事をまた翌日その魚にそう伝えると、もう、その時には魚がね返事をしなかった。船べりを自分の尾びれでぱちっとこう音をさせて海の中に消えていった。今まで黒ずんでおった海が沖のほうからものすごい耳鳴りの音が聞こえてきた。慌てて帰ってみたら、浜辺には何日前にみすぼらしい小屋の中でお婆さんが水瓶の前に腰を掛けてお爺さんの帰りを待っておったような姿だけしかなかったというのである。
本当に私その話を思う時にですね、今日その思うのです。例えば私は言うならばです、ね、本当に金色玉露のようなお家に住まわせてもろうて沢山の金の中にうずまってたくさんの召使いにかしつかれておる私ではなかろうかと。これで私がよりおかげを受けたなら恐らくその魚を自分の召使いにするようなそれこそ、自分が気がつかないままに教祖のみ教えの中にあるように「神より上になるとは思うな」と仰る、ね、私共生神を目指しておる。ね。お道の信心は何を目指すかというと生神を目指すということなん。「生神とは神がここに生まれると言う事であって」と、普通でいう例えば千里眼的な雲が霞かを食べておるといったような仙人のような意味合いにおいての生神様ではなくてです、「生神とはここに神が生まれる」という事であってとね、「此の方がおかげの受け始め、皆もこのようなおかげが受けられるのぞ」と教祖は教えておられる。ね。
私は神の子としての自覚が出来て、その神の子の自覚に立って私共が改まり磨かせて頂かせてもらう、我情が我欲がとれていくところにです、私共は生神の道をひたすら歩かせて頂く事が出きるのが金光教の信心の私はすばらしいところだとこう思う。
生神様を目指されるんだと。誰でも神様になれれるのだという道をです、教祖の神様ご自身がもうおかげの受け始めとしておかげを受けておいでられる。皆もこのようなおかげが受けられるとね。昨日からも申しますように、信心とは結局我とわが心が拝めれるようになる私なん。私を目指す事なんだ。ここに神が生まれるという事は神が生まれると言う事は私の心の中にですありがたいなあとか、ね、自分で自分の心を拝みたいほどし、もうそこにすでに生神が誕生しておるわけなんです。だから、その生神の誕生をです、私共が祝福するだけではなくて、それを本当に育てていくという事が信心なんだ。お道の。ね。 ですからその生神がです慢心する、があってはならんのだと。ね。「神になりても神より上になるとは思うな」と。「神になりても神より上になる」。私のように思いあがりの強い人間は本当にもし私が神になったら、神より上になるような性根がこの位のおかげを頂いておる中にでも慢心しておるのだからこれ以上の頂いたら必ず、神より上になるような心が起こってくる。それが恐い。それが恐ろしい。それが神様がね、これはここで、この位な時分にその芽を摘んでおかなければならない慢心の芽を摘んでおかなければならないとして、神様が本当のおかげを下さるのではなかろうかと今日は特に思う。金輪際慢心どん起こすようなことはありませんと思うておるようであって慢心しておるじゃないか。 最近、ここに色々起きてくる様々な自体というものをじっと思うてみる時に本当に(?)ようなおかげが確かに展開しておる。けれどもそれは丁度さっきの漁師の話しではないけれども、帰ってみたら家が立っておった。帰ってみたら金がいっぱいあったというようなものではなかろうか。その反面私共がです、ね、さざなみが荒波に変わっていったり、沖のほうが黒うなってきておったり、沖のほうではすごい波の音が聞こえておるのが聞こえんようになっておる自分ではなかろうか。
今日、御教えを頂きたいとお願させて頂いても、御教えどころかこういう例えば白紙のところを何でもないところを頂いた時にそれを私は直感した。もう、お前には教えん。いくら新しいこと素晴らしいことを教えたってお前がそれを本気で勉強しようとしないものをどうして教えるかと。今日一日よく自分の胸に手を置いて今まで習うて来た事をいっぺん考えてみよと。復習じゃ。自習するのだと。言うふうにです、神様が言うて下さったような気がするのです。ね。私に繋がる皆さん本当に皆さんも慢心の心が強い。ね。ですから、こういう、いわゆる皆さんの場合はですよ、ね、あれに不自由しない、これに困ったというようなことはないと言う程しのおかげを受けておるわけではないけれど、ね、そういうように例えばおかげでもです、今あなたにここに億万のお金を与えたらひょっとしたら信心を止めるかもしれん。
今あなたに、( ? )おる、あなたの願っておるおかげを神様が今下さったら、ね、その頂いたおかげでかえって怪我することにもなるかもしれん。そう思われたら神様もじっとしてはおられなさらん。神様もおかげ、ああそうかそうかと聞いてくださるわけにはいかん。日々教えを頂かせてもろうてその教えが身について、いよいよ実意丁寧神信心が身に付いてもうこれならば大丈夫と、というほどしのですね、信心が身に付いた時に神様が安心しておかげを下さる。そこに私共が願うところのどのような場合でも安心して受けられる。日々が安心して、生活出来れるいわゆる大安心のおかげとでも申しましょう。そういうおかげの頂けれる、事を私は確信しております。ここまでおかげ受けてみてそれを確信します。私はこれからもっと本当にわが心が神に向こうて生神を目指していく、そういうおかげが必ずそういう、現在の頂いておる一つのまた違った次元が開けてくる。ね。これはここで慢心どん起こすだんじゃんないぞ、ここで、ね、油断どんしてはならんぞと。自分の周囲の様々な事から、考え合わせてこれが、ね、波の色、海の色が変わっていきよる姿ではなかろうか。これが、今までの小波が荒波に変わってきよる姿ではなかろうかといったような事態をですよくよく、そちらのほうを見極めさせて頂いて、ね、自嘲した信心を一つ進めていかなければいけん。このおかげさえ頂きゃ決してご恩は忘れません。それは皆が言う事である。苦しい時にここさえ助けてもらえりゃ一生ご恩どん忘れません。というて、忘れて信心を止めていった人がどの位合楽の関係のある信者の中にあったか分からんです。ね、ですからその事だけがおかげではない。ね。それはむしろおかげではない。百万円宝くじが当たってかえって家が没落したというね、そうやってかえって困った結果になったという例は沢山聞いてきた。あの宝くじが売り出されるようになってこのかた、今は、百万円、何百万かでしょうね。いかにもそれがおかげのように思うけれどもです、それが本当に生かして使えれる私にならなければ本当の事じゃない。ね。
私を含めて皆さんも一緒に今日御理解何節、御神訓何々といったような、ね、いわば、ような、もので今日は御教えを頂きませんでしたけれども、これはまあ私の事だけというてもよいですけれども、ね、私は今日そのことを頂けずにそこから感じさせて頂いたことはです、ただ今申しましたことは自分の慢心気という、いよいよ、根絶する努力、精進というものがまず、これは先決だなあと。これはいよいよ思いあがってはならんぞと、いよいよ実意丁寧神信心をいよいよ身に付けていかなければならないなと。どんなに調子が出て来ても、調子に乗ることは有り難いけれど、調子に乗りすぎる事はあっちゃならんなと、今の合楽ではもう本当に調子に乗りすぎならなければならないほどしのおかげを受けておる。ここで本気で一つブレーキが必要だなといったような事をね今日私は感じました
どうぞ